昭和56年1月23日 月例祭
秋山誠治
「入力が出来ていない」そしたら、今日が始めての天津祝詞が神徳賛詞に、大祓いの言葉が神前拝詞かね。の言葉に変わりました。ここではもう、えー、この事が、先達てから、ま、これの講習会のようなものがございまして、ここから、若先生と栄四郎が参りました。で、あの、覚えて帰って来て、大体は、百年祭の、を境に変わるんだそうですけれども、それをその日のうちに聞かせて頂きましたら、あまり内容が、素晴らしい、調子もいい、その晩のうちに皆さんに御手渡し、しとります。もう、作ってもらいまして、その翌日から、合楽では、ただいま、奏上しましたような祈念詞を奏上して御祈念をさせて頂いております。月次祭としては、だから、今月が始めてでした。その翌朝の御祈念の時に、「朝顔は、ばかな花だよ根もない竹に、命までもと、絡みつく」という、これは都都逸の文句ですけれども、そういうような事を頂いたんです。
どういうような事であろうかと、思っておりましたら、まぁ、いうなら、ここ百年間、金光教の、今、教祖の神様は、えー、神様と相対される場合に、お線香を上げられたり、 般若心行を挙げられたり、または、みそぎ祓いとか、大祓いなんかも、まぁ、挙げられた様でございます。
それが、段々神道形式に、まぁ、似通ったものになってまいりまして、もう、いうなら百年間慕しませて頂いた。天津祝詞と大祓詞、または、祖先賛辞といったようなものが、まザ、使われて参りました。もう、前から、これはどうでも金光教独自のものにならなければと言う、お話は有っておったけれども、なかなか、それこそ、「正月は、(しんど)?芝居というけれど、息が切れずにキューキューと言う」と言うような事に今日まで成っておりました。私共、まだ、小学校の自分には、学校では新の正月、それから、宅の方、自宅では、やっぱり新じゃどうも正月の気分がせんからというて、その旧でいたしておりました。または、真に旧の正月というのは、いいなーと思って居りました。けれども、いつの頃からか新になってしまいましたが、もう、いまさら旧の正月という事は無い様に 、まぁー、百年間も続けてまいりました。大祓詞そして、いわゆる祖先賛詞、天津祝詞というものがね。実際、こう、奏上しょって、ふと人間心なりますとね。こんな事を大体申し上げていいのだろうか。金光教の信心ちゃ、こういう事を唱えていいのだろうかと思うような、節々がいくらもございました。けれども、ただただ、もうとに角、奏上する事によって自分の信心が清められるようなね。言うならば、六根奏上でありました。
それが、今度出来てまいりました、実行には、まだ移されてはおりませんけれども、まぁ、お伝えする事は確定しておるそうですけれども、それを聞いて内容が分ったら、途端に、その翌日から、合楽ではおかげを頂いております。これが本当だと言うことになったら、もう今までの過去の一切を振り切って、振り捨てて、本当な事へ、言うならば、合楽でいつも言われます。本当から真実へという生き方をやはりお互いの心情としていかなければならん。それが合楽の信心だという風に思います。
皆さんもどうでしょう。奏上されてひとつも抵抗が無いでしょう。抵抗が無いどころか、その字を目で追っておりますと、日頃合楽で頂いておる教えがそのままに打ち出されておるので、皆が感動しますでしょう。(感動)が、私は神様がね。本当に金光教百年、ようやく神の願いがこのようにして成就して来ておると言うことをお喜び下さる。皆さんが、お家で、今日も、どなたでしたか、もう、あれを奏上させて頂いておると、も、途中で感動してからも(感動)字が見えなくなってしまうというて、ん、もう、内容がやはりすばらしいからですよね。
今日、研修の時、今朝からのご理解に「氏子十里の坂を登るのに、九里半登ったからというて、油断をしてはならんぞ。ね、気を緩めると、又、後へ戻るぞ」という、あのご理解に基づいての事でございましたが、今日は、私どもが折角、氏子信心しておかげを受けてくれよという、天地金乃神の氏子へかけられる願いが、いよいよ、分らせて頂く事は、信心の道を間違いなく進め、稽古させて頂く手立てが、合楽理念で説きますから、合楽理念に基づいての生活させて頂いておりますと、これが力になるのであろうか、これがお徳に成るのだろうと、思われるような信心体験を頂かせて頂きながら、信心を進めております。言うならば、これが育って行けばお徳になるのだと、ところが、私どもは中々教えの徹底と言う事が出来ておりませんので、まぁ、その油断しておるわけではないけれども、気を緩めておると、又、元にもどる。言うならば、信心が同々回りですから、おかげもまた、同々回りというような事になってはならないというか、今日は、ご理解、先だってから、昨日、一昨日でしたか、久留米のご信者さんが、今度息子さんが結婚をいたします。それで、もう、まぁ、仲人さんの話の具合でしょうか、もう、何もかも新郎の方側で持つと言う事になった。先だってから、先方のお母さんが見えて、結婚式場を見られたり、または、披露宴のおご馳走やら、引き出物のなんやらの下見をされた所が、先方のそのお母さんが色々と難癖を付けられる訳ではないけれども、これはこま過ぎるの、大き過ぎるのという風にいわれる。所が、日頃、日々、その方、信心がシッカリ出来ておられますから、親先生が今度の結婚式は、結局、信心のない家から貰うのであるから、まぁ、日柄を言われたり、色々とうるさい事を言われるかも分らんけれどもね。結局「向こうさん本意で行きなさいよ」とお届けした時に言われておった事が、すぐに閃いた、頭に、アー、これが、あの向こうさん任せになることだなと、そりゃー自分方で全部支払わせて頂くんじゃから、向こう側から、例えば、まっちと大きな物にして下さいとは言えないようなことですけれども、それをそうですねというて有難く受けてというお届けをここでなさっておられました。おかげを頂いて御教えを行ずるという事は有難いなーと、もし、御教えを頂いていなかったら、もう、そもそもから、なんかカチッと(笑)いくような感じだけれども、こちらが豊かに大きく成らせてもらうと言う事が、教えによって出来てくる。成る程、そう言う生き方をしたら、いよいよ、心が豊かに大きくなるでしょう。それを聞かせてもらよったら、私の御心眼に、あ、「ふ」を頂くんです。次々とこう穴のほげた「ふ」がありますよね。ふです。ふ、ほれで、はぁー、こういう頂き方がおかげを受ける。ご神徳を受けるとはこういう事だなと、私は思うたですね。さぁ、例えば、口では言わんでもです。わがままな事をいうおっ母さんじぁあると、自分の方は金一銭も出さんとに、その引き出物が、かまいとか、大きいとか、そんなこというちからと、例え心で思うたら、もう、それはおかげにならん。それこそがあちらのお母さんの口をかって、神様が頂いているお徳を育てて下さる為に、ふを蒔いておって下さる様なもの。「鯉のえさ」鯉とは、ここでは御神徳という。御神徳、その御神徳が育っていかなければ行けんのに折角合楽に、神様を頂いて信心によるおかげを頂こう、徳を受けよう、といいながらそう言う、都度都度にです。ね、カッチと来たとか、腹が立ったとか、寂しゅうなったとか、というとったんでは、言うなら、お徳のえさにはならない。徳は育たないという事でございます。ね、だから、そう言うね。私共が、合楽にご縁を頂いておる人達が信心を頂くという事は、合楽では、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰しゃるのはね。そう言うおかげを頂くのである。為には、言うなら、お徳がいよいよいやが上にも大きく育って行かなきゃならん。そのお徳のえさは、そう言う時に、言うなら、反発をしたり、ね、または、心の中がイライラしたりでは、折角の(餌)、徳の餌さを向こうの方へ押し返してしまうような事になる。そう言う事はですね。私共は、ちょっとした油断から、わかっちゃおるけれども、あら、又失敗をしたで、又、同々廻りのような事になっておるような事ではなかろうか?と言うご理解でした。今日3時に研修を皆さん、見事なまとめをしておりましたが、中に、正教先生が発表した中に、只一言私の心に感じた事があったから、今日はそれをとって、今日の黒板に書かせて頂こうと言うて、今日、黒板に掲示されておるのは、正教先生が書いておるわけですけれども、その中に、合楽では御神徳を頂く事の為の、まぁ、教えを教導しておるという意味の事が中に書いてある。確かにそうですよ。合楽ではね。もう、氏子信心しておかげを受けてくれよ、只、氏子おかげを受けてくれよじゃない。信心しておかげを受けてくれよなんです。その信心とは、信、いよいよ神様を信ずる事であり、真心にならせて頂く事であり、いよいよは、神心にも成らせて頂こうと言う信心なんです。もう、合楽では、確かに、御神徳を頂く事の為の教えばかりだと言うわけでございます。
今日、ちょうど研修前に福山から、大きなぶ厚い手紙が、大きな手紙が参りました。それには、坂本さんという方でしたかね?えー、合楽にお参りをして、お引き寄せ頂くたん遍に、永年、まぁー、ある教会で信心しておったけれども、初めて、信心が分りました。ね、合楽の教えを頂いて信じ、そして、皆さんが御造営、御造営と言うておられるのに、御造営費のお供えも出来ん事に、相済まん事だと思うておりましたが、ふとこの昨年の12月に、毎年保険金を、火災保険の保険金をかけている。毎年掛けて掛け付けになっておる。そこで、私は思いました。ね、もう、よし、焼けるならやけよ。そん時はそこからのおかげを受けていけばよいのだ。もう、今年からは、火災保険に納めるお金をそのまま合楽の御造営の費用に使うこうて頂こうと、腹を決めました。で、今日はそれを送らせて頂くと、、他に色んな信心の事が一杯書いて終わっておりましたら、又、続いて手紙が、追伸ですかね。と言う、又、便箋2枚書いて、便箋続きに、これを書き終らせていただきましたら、只今電話が掛かって来てという事が書いてある。
それには、今まで、お仕事が切れて大変難儀をして他に商売換えでもせなんだろうかというようにあったのが、電話が掛かって来て沢山な注文があった。半分は断らなければならないような感じである。しかも、私の願っておる、思うておる、3つの条件が足ろうた注文であった。電話では、それは、それだけは受けられんから半分にと、こう申しましたけれども電話を切った後に、はー、これは自分の頂き方が間違っておった。折角神様が、今まで休業状態であった所へ、沢山なご注文を、しかも、願ってもかなわないような、好条件の下に、沢山な仕事が来たのだから、これはどうあっても全部受けるべきだと思っておる所へ、先方から見えた。それで、実はこうこうですがと言うて、お話しをしましたら、それだけならば10日、20日遅れてもよいですよと言うような、又、好条件の下にお約束が出来たと、その手紙と引き続いて、今日は、それを読ませて頂いて、今日の研修にさせて頂いた事でしたが、その中に、いわば、おかげを頂いてというよりも、力を頂くと言う話しが一杯込められてある事を感じ取らせて頂きました。皆さん、どうでしょうか?ね、お徳を受ける、力を受けると言う時には、こういう時、こういうような場合なんだ。も、それこそ、打てば響くような話しでございました。今日、4時にここを下がらせて頂きます時に「のどが渇くぞ」と私、のどが渇きますからね。ハァー、又のどが渇くとじゃろかと、次には「ただれとる」と頂いた。私、この頃、目がただれとる。ハァー、これは、私のよう。ただれとる事を神様が言いなさるとじゃろうかと分らなかった。そして、只今、御祈念中にこの事を、ふと思わせていて「ただれとる」とは、私の目のことじゃろう。「のどが渇く」ち言う事は、私の事じゃろうとばかり思うておったら、ふーとこれを、私はね。これは、久富正義先生がよくお話して、まぁ、笑わせる話しなんです。ある所にね、大変、言うならば、しみったれな、それこそ、もう、出すもんな、手出すとでん、すかんと言う人がおっちゃった。それで、もう、もう、ご飯でんなんでん、お菜いでんなんでん絶対作らん。梅干を、こう、目の前に置いといて梅干を見ると酸いかつが、上がって来るでしょう。それば見るだけでご飯を頂く。ところが、息子が一生懸命梅干を見てからご飯をいただきょるげな。それけん、親父さんが息子に言うたげな。おまやー、あんまり、いつまっでん見よると、のどが渇くぞと言うたげな。(笑)あんまり、いっまっでん見よるとのどが渇くぞち、ハァーのどが渇くぞちゃ私に事じゃなくて、そう言う事だったなーと、こう思たんです。ね、梅干の話しをしただけでも、そーと唇がこう上がるでしょう。ここへお参りをしてくる。あれもお願いしにゃー、これもお願いせにゃならん。今日も、福岡の田中さんが久し振りに参って見えて、もう、本当に昨年から今年に掛けて、おかげを受けておる事、あれもこれもお礼を申しあげにゃならん。一杯でございましたけれども、親先生の前に座ったら、なーんも言う事がない。もう、おかげを受けておる事ばっかりなんだから、ただ、お礼を言うより他にないと言うて(感動の涙)から、涙を流してお礼のお届けをなさっておられる。言うなら、私を見たばっかりで、私が梅干のごたるふな、もんじゃなかろうか?見ただけで涙がこぼれる。あり方涙が、それこそ、あんまり、いつまっでん見よるとのどが渇く。(笑)ただれとるち言うがね。これも、私の目の事だけじゃなかごたる感じ、私の事でもありますかも知れません。あるお父さんが、悪こつするから、怒ってお父ちゃんの顔を見れ、お父ちゃんの目を見れち、言うたげな、したら、子供が言う事に「ただれとる」ち、言うたげな(笑) ハァハァー「ただれとる」とか「のどが渇く」とか、これは、私の事でなくてね。今晩のご理解の元やったなーと気がついたんです。だから、これはひかえとったばってん。今降りてから、ここへ持って来たんですけれども、皆さん、「ただれとりゃ」せんですか?ね、本当にね。私は合楽にきたらね。言うならば、ここへ着いた途端に有難さが込み上げて来るようなものが、無からなければ出来ん。今日も、又、それこそ、御神徳を頂かせて頂くお話しばっかり、又、どういうようなお話を頂くだろうと、言うなら心ウキウキな思いで、合楽には通ってこなければいけません。ね、
途端に、有難うなってくる。自分という者が、それこそ、目がただれておるお父さんが「父ちゃんの目を見れ」といくら怒ったっちゃ、ただれとるというだけ。言う事は聞きゃーせんね。それこそ、ハイハイと言うても、お前はどうかと、言われても仕方がないような自分では、 私は、信心は言うならば、子、孫に伝えると言う事は出来ないと思う。今日は、朝の御祈念に常持ちから初めて3人、親子、兄弟3人の人達が参って来た。もう45にもなられる。秋永、秋永金光と言う方である。この方のおじいさんが、それこそ、80年も、90年も前の話で久留米の櫛原の教会に久留米の初代が、あちらへ布教に出られた時分から、御信心をなさっておられた。家にはお祭りしてある。そんなら、あーた、しっかり毎日拝みなさらにゃーいかんなー、はぁー、私の方は盆と正月だけは、絶対もう家中の者で拝む。そして、そのおじいちゃんがこの信心が子にも、孫にも伝わって行くようにというて、私の名前を金光とつけた。秋永金光ち書いちゃるもんね。「金光」そして、かねみつと呼ばせる。おじいちゃんの思いですね。だから、私はどうしても金光様の信心をせなければならんごと出来とるとらじゃろうと思います。と言うお話しでございましたがね。結局、子にも伝える。本当におかげを受けた。子にも伝えたい、孫にも伝えたい、それはね、お徳でなからなければ伝わらない。あの世にも持って行け、この世にも残して置けれる信心をですね。頂かせてもろうて、それにはね。いわゆる、いくら、言うなら、和尚な事をいうても、お父さんの、言うなら、目のただれたお父さんが、お父さんの目ば見れち、ただれとると言うだけの話し。ね、ほんな事、お父さんの目ば見たら、改まらずにはおられない。お父さんがいう通りにしなければいけないと言う風にです。伝わって行く為には、私は先ず自分自身が正さなければならないと思います。ね、どうでしょうか?合楽で皆さん、あー、これが本当の信心だと分った時には、もう、全て、お徳の入り口です。合楽という、いうならば、お徳に、言うならば、縁あって乗せて頂いた。乗ったり降りたりではいけません。乗り続けさせて頂いたて、御神徳に、それこそ、成り行きを尊び大切にさせてもらう。今日、皆さんがお祝詞、祈念詞を奏上されました中にも、詠ってありますように、ね、日頃頂いておるこのみ教えが、只、詠い言葉、祝詞言葉だけではいけません。あれがそのまま、自分の血に肉になって行く思いで、おかげ頂いて行きたいと思います。皆さん、今日は一つね。のどが渇くという事とね、ただれとるという所をいっちょ焦点において今日のご理解を聞いて頂いたつもりでございますから、成る程、ただれとる、これでは、伝わって行かないはずだ。果たして自分という者が、それこそ、梅干のように、誰が見ても、あの人を見とったら、言われる事、される事、感心する。本当に頭が下がる。本当に胸が篤うなると言われる位な篤い物を自分の心の中に頂き止めて行きたいと思います。それがそのまま徳になる。しかも、それが構えておって何時どのような場合であっても、あー、ここがお徳のいうならばえさになるのだと思うたら、とても勿体無くて、返していく事は出来ません。皆さん、それでも、いくら返してもおかげは受けるんです。けれども、今日、竹内先生が申しておりますように、合楽ではお徳を頂く事の為だけの教えというても過言ではないです。ですから、そう言う教えを頂いて、しかも、それを楽しく有難いと言う所まで高めて参りますと、それが大変有難い。
今日は、吉井の波多野さんと言う方が、毎日、それこそ、今度福引を引き当てられた福引の中に「只、ひたすらに」とかなんとかと言うくじを頂かれた。本当に、只、只、もう、ひたすらに合楽、合楽と何十年間通って見えておられる方です。中々、自分の信心が子や嫁やら、孫達に伝わって行かん。先日も、休ませて頂いておったら、部屋に嫁が入って来た。障子を開けて入って来たのはよかったけれども、障子を開けっ放しで出て行った。まぁ、閉めて行けばいいのにと、まぁ、チラッとこう思った。いやいや、そうじゃない。もう、これが神愛だなと思った。と言うお届けが今日ありました。ね、だから、そう言うような事がです。例えば、アーこれが神愛と思いつかせたんではもうおそかです。だいたい、それがもう問題にならない位に、または、あの、自分がちょっと降りて行って閉めたらそれでよいのであり、ね、それがなんでもない。言うならば、心に育って行くようなおかげを頂きたいですね。はぁー、これが神愛と分る事も日頃の教えが身に染み込んでおるから頂けた。けれども、その身に、血になっておりますと今まで問題と思うておった事が全然問題でなくなると言う所まで、いうならば、底の貫けた、いよいよ、馬鹿と阿呆で道を開けと仰せられる、言うなら、信心とはそう言う信心じゃなかろうか?
限りなしに、信心と言うものは深められる、高められていくもんです。ね、いよいよ、合楽理念の芯でもあります。成り行きを尊ぶとか大切にすると言う事と同時に、そう言うおかげを頂いて行く内に、いつの間にか、全然、問題が問題にならないような、大きな豊かな心を頂きたい。そして、大きな豊かなおかげを頂きたい。どうぞ。